そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義 epubダウンロード

そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義

strong>本, 中澤 篤史

そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義 epubダウンロード
によって 中澤 篤史
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内容紹介 教師の過酷な勤務実態、体罰・暴言問題等により、部活への関心が高まっている。日本独自の文化である部活は、そもそもどうして生まれたのか。いま何が問題で、これからどうすべきなのか。部活研究の第一人者がやさしく解説。 [推 薦] ★内田 良さん(教育社会学者、名古屋大学准教授) 冷静だけどアツイ! 部活の「過去」を最もよく知る研究者が、ついに「未来」の実践に向けて語りだした! ★荻上チキさん(評論家、「シノドス」編集長) 体罰、休日出勤、強制加入――。「ブラック部活」の汚名を返上しなくては。 教師も生徒も、地域も保護者も幸せになるための、「部活のこれから」がここにある! [書評から] ★濱口桂一郎さん(労働政策研究・研修機構)――「日本独特の部活文化が形成されてくる過程を詳しく説明した本書は、大変面白い」(「hamachanブログ」2017年2月14日) ★生島 淳さん(ノンフィクションライター)――「いま、日本の中学、高校の部活動は岐路に立っているが、それを考えるのにぴったり」(『週刊現代』2017年3月25日・4月1日合併号) ★斎藤美奈子さん(文芸評論家)――「部活が楽しかったという人ほど負の側面には気づきにくい。……これは大人も含めたみんなの問題なのだ」(『朝日新聞』2017年4月30日付) 出版社からのコメント 部活をイチから問いなおす! 世界初の入門書 商品の説明をすべて表示する
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学校の部活動の問題点を指摘した良書。従来、この種の問題を「誰もが感じていても」、正面から論じた一般書が少なかった。ただし、気になる点として、・この本は、部活動の問題点を指摘しつつ、それを解決する方向を示そうとするが、結果的に、クラブの顧問の教師に、今よりも、「もっとがんばる」ことを求めることになりかねない。・著者は、部活動での死亡事故が初めて世の中に「知られた」のが2009年だというが、戦前から、学校活動中の事故が多発していることは常識だろう。1913年に小学校の学校登山で生徒ら11人が死亡、1955に中学校の水泳訓練で生徒36人が死亡、1963年に高校の学校登山で生徒11人が死亡している。学校行事は部活ではないが、部活の方が学校行事よりも安全ということではない。著者は、部活動の「安全・安心」をめざすが、あらゆるスポーツに事故がつきものであることは、ハインリッヒの法則が示している。安全ではなく、「リスク低減」が国際的な潮流である。「安心」は日本固有の文化であって、国際的には理解されない。情緒的な「安全・安心」ではなく、科学的なリスク管理が必要である。部活動におけるリスクが問題であり、登山、ヨット、カヤック、柔道、ラグビーなどのリスクの高いスポーツの扱いが課題である。この本は、「希望的な記述」が多い。・スポーツのリスクを前提にすれば、部活動でできることに限界があり、リスクの高い内容は、学校以外の場でリスクを前提に行うほかない。リスクのあることは学校の安全文化に反する。サッカー、ラグビー、ボクシング、スキージャンプ、登山などを本格的に訓練すれば、確率的に必ず事故が起きる。学校で事故が起きれば、責任問題が生じ、加害者にも被害者にも悲惨である。学校外では、親のリスクの承認が可能になる。・学校の部活動で、レベルの高い競技をすることに無理がある。競技選手の養成は、学校外の専門的機関にまかせることが合理的である。欧米では、だいたいそうなってる。学校では、多様性が前提であり、多くの生徒が参加する部活動でレベルの高いことをするには、もともと無理がある。平均的なレベルの部活動は、運動能力の劣る者はついていけず、能力のある者には、物足りない。・あまりに多くのことを学校に期待する日本の「学校文化」に問題がある。日本は、「学校文化」と「会社文化」が支配的。学校と会社以外では、娯楽的なスポーツの場が少ない。勉強と仕事をする時間以外は、「余った時間」(余暇)として、無視・軽視される。・部活動をめぐる法律のあいまいさが問題の根底にある。法律のあいまいさは、管理する側(国など)にとって、その方が都合がよいからだが、管理の都合を優先する日本の法文化の問題性。それは、社会のあらゆる分野に存在する。日本では、法律があっても、だいたいザル法なので、法治国家とはいえない。この点で中国、韓国と似ている。・残業ただ働きが蔓延する日本の社会全体の問題性。国の役人自体が深夜まで残業ただ働きをしている現実。裁判官もだいたい週に70時間くらいは働いており、「余暇」を理解しない。仕事中心社会は、10代では学校中心社会である。日本では、スポーツを扱う役所は、なぜか文科省。・部活動の問題は、学校だけの問題ではなく、社会全体のシステムの中で考える必要がある。この本は、部活に密着(愛着)するあまり、近視眼的な印象がある。日本の社会・経済・政治構造の中で考えて初めて部活の性格や役割が理解できる。部活は、行政を補完する日本的な義務的ボランティア活動として学校が所管しており、PTA、子供会、企業・役所の無償残業、家庭内介護、保護司、民生委員、行政区などと同じ性格がある。日本のボランティア活動は、行政を補完する「義務的ボランティア」が多い。教師のボランティア活動が教育行政を補完している。日本では、本来の自発的なボランティアが育ちにくい。経済的生産性に結びつかない分野は、予算がつかず、国民の義務的ボランティア活動に依存する。日本の部活は、行政にとって、実業団スポーツと並んで、安上がりで便利なスポーツ政策として定着している。日本的な公私のあいまいさが、部活を支えている。教師は24時間教師であることが求められ、仕事外の酒気帯び運転なども、「教師の行動」とみなされ、教師として処罰される。それを当然だと考える日本人が多く、そこでは、教師であることは、仕事の属性ではなく、人間の属性になっている。この点は、社会人類学などでも指摘されている。そこには契約関係の意識がまったくない。公務員は、仕事と無関係の私的行動であっても政治活動が禁止される。公務員は、24時間公務員である。仕事を離れた自由な私人であることを許されないことに、違和感を感じない人が多い。国民の行政への依存心が、日本の学校文化を支えている。日本では、学校文化と会社文化が24時間支配し、それを離れた私的空間が希薄。学校にも行かず、会社にも属さない者は、「ニート」と呼ばれ、居場所がない。ニートの居場所がないので、ひきこもるほかない。学校では、勉強も運動もできない者は、居場所がない(保健室が居場所になりやすい)。冒険家の植村直己は、日本の学校にも会社にもなじめず、ニートの定義からすれば、植村直己はニートに分類される。・スポーツにおける国民の主体性と自立性。これがあれば、学校に期待せず、親の自己責任のもとに子供にリスクを伴うスポーツをさせることが可能となる。もともとスポーツは自立的なものであり、自立的なスポーツは義務的な学校文化と相いれない。教育では、「教育目的」という「実益」が求められ、趣味としての楽しむスポーツではない。教育の一部としてのスポーツは当然、必要だが、それとは別の「楽しむ」スポーツが必要である。日本には、「楽しむ」スポーツの場が少ない。学校から離れた趣味としてのスポーツの楽しさ・・・・・・。日本には「〇〇しなければならない」ことがあまりにも多く、息苦しい。スポーツでも同じである。学校の部活はその典型である。「〇〇しなければならない」を離れて、純粋にスポーツを楽しめる環境が少ない。「学校」と「会社」を離れた世界に、趣味や娯楽、本来のスポーツがある(sportの語源は、気晴らし、遊びである)。・著者は、部活動を肯定的、希望的に描いている。著者は、部活動を支える理念として、「自主性」をあげる。教育における自主性や主体性は理想だが、現実はそうではない。日本の学校は、勉強やスポーツのできる者には楽園だが、苦手な者には地獄である。著者は、おそらく前者の人である。前者に属する人が教師になることが多い。日本の学校は、人間の多様性を無視し、画一的な傾向が強いので、皆と同じことができない者には苦痛である。有名な登山家の長谷川恒夫は、「学校は刑務所のような場所だった」と述べている。自由に敏感な者には、日本の閉鎖的な学校は大きな苦痛をもたらす。学校に適応できる者が多いが、できない少数者がいる。部活でも、順応できる者もいれば、多様性の無視や自発性の強要などに傷つく者もいる。これは少数であり、少数者は無視され、多数派の価値観が支配しやすい。北欧やオランダのように多様性を実現した学校でも、学校である以上、「自主性」の範囲は限られるだろう。学校での部活動は、学校活動である限り、完全な自主性はありえない。学校の部活動に、完全な「趣味の自由」はない。学校で「自主的」であることを勧め、あるいは、それを義務づけることは、それ自体に矛盾がある。著者のいうように、学校の部活動を「楽しむ練習の場」としての教育的機能を重視することは、理想かもしれないが、現実には、学校の教育時間の延長であり、会社員、公務員、教師のボランティア活動的残業時間の延長と同じく、多くの問題をもたらす。学校でできることに限界がある(本来、当たり前のことだが)という割り切りが必要である。10代では、学校以外の私的空間でこそ、自分のやりたいことができるが、日本ではそれがシステムとして整備されていない。大人の場合には、会社や仕事を離れた私的空間でのスポーツが成り立ちにくい。部活の範囲、対象を大胆に制限し、学校外の私的活動としてのスポーツや文化活動を充実させることは、国の施策として実施することであり、自治体、学校や教師の努力だけでは無理である。・この本は、このような問題を考えるヒントになる。

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